アンナミラーズの歴史

この期間限定ブログも、だんだん終わりに近づいています。


繰り返しになりますが、ここでチームの歴史をもういちど振りかえらせて下さい。
何回使い回せば気がすむんだ、なんて言わずに。
前回から最終章が若干変わっています。



(1)1992・横浜アンナミラーズ創部


平成4年初夏のある日、品川駅前「アンアミラーズWING高輪店」でまだ20代だった私は同じ会社のH先輩と向かいあっていた。
私は、眼の前のH先輩が充分酔っているのを確認してから、おもむろにカバンからラグビーマガジンを取り出し「ビーチタッチフットボール」(当時はそういう名称だった)の参加募集記事を示した。


「こんなイベントがあるんです。」
「何?ビーチタッチって?」
ラグビーのおいしいとこどりしたスポーツです。タックルがないから安全なんです。」
「けっこうキツいんじゃないの?」
「いや、女の子もけっこうやってますから。楽勝です。」
「・・・・」(怪訝そうなH先輩)
「場所は平塚のビーチパークですから水着のお姉さんがわんさかいます。」
「ほかのメンバーはどうするの?」
「社内にラグビー経験者が何人かいるじゃないですか。けっこう強いんじゃないかな。モテますよ、多分。」
「そううまくいかないだろ。」
「経験者でライン作ってHさんがいちばん端、ラグビーではウイングっていうんですけど、いちばんトライするチャンスの多いポジションやらせてあげますよ。モテますね、絶対。」
「うーん、やってみてもいいかな。」


女の子もやってるから楽勝というのと海水浴場でもない平塚ビーチパーク(今は泳げます)に水着のお姉さんがわんさかいるというのはウソだったが、数日後、H先輩の広い人脈のおかげで何とかメンバーが確保できた。
チーム名は、私とH先輩の居住地に冒頭のミーティングが行われた場所を付け足し「横浜アンナミラーズ」とした。
辰巳、八景島などで練習を重ね、7月、アンナミラーズは第2回関東大会に初出場する。


あの初夏の日、結果的に私はあと3つウソをついていた。
H先輩はトライすることも、モテることもなかった。
そしてけっこう強いと思ったチームは・・・


まったく強くなかった。




(2)1992〜1993・牧歌時代


社外からもメンバーの知人のラグビー経験者に参加してもらうなどして、なんとかチームらしくはなった。
が、練習試合でも公式戦でもなぜか強いチームと当たってしまい勝てない日々が続く。


もともと、運動後のビールを美味しく飲むのが最大の目的なので、試合の結果は二の次だという雰囲気がチーム内にはあった。
やっとの思いで口説き落とした花園常連校のフルバックをやっていたという人が、運動をまったくしない10年の時を経て、ただの小太りのおじさんになってしまっていたという誤算もあった。


でも何試合もやってれば、たまには勝てるでしょ、普通。


2年目は静岡で1泊2日の合宿までした。練習は初日の午後1回だけで1時間弱、メインはドライブとバーべキューと飲み会だったが。
平塚の練習会にも数回参加した。
チームの力は徐々に上がっているかに見えた。
しかし、公式戦は2年連続で2連敗。


300近くチームがあるのに、なんでいつも強いところと当たってしまうんだろう?
答えは簡単だった。
クジ運が悪くて強いチームとばかり当たっていると思っていたのは錯覚だった。
自分たちの試合をビデオで見てみると、対戦相手はどうみても技術的にも体力的にも大したことがなかった。あんなに走りまわられてたくさん点とられたのに・・・。


もしかして、ウチって、相当弱いんじゃない?




(3)1994・ターニングポイント


公式戦未勝利のまま迎えた3年目のシーズン。
どうも主務の言ってることは違うんじゃないか。
勝てないし、モテないし。
女の子もやってるから楽勝って話だったけど、真夏に砂浜の上を走りまわるってけっこうツラくないか、ってことがバレはじめたこの年、夏を前にして数名がチームを去ることになる。


かわりに、入社したばかりの新入社員2名を含む若手数名がチームに加わり、平均年齢がグッと下がった。
部員のプライオリティーは、練習後の飲み会より練習そのものに重きをおくようになっていった。いまさらの感はあるが。
平日の夜、新宿中央公園の月明かりの下、試合に向けた練習は熱を帯びた。
アタック&ディフェンスでは、膝の靱帯を伸ばす者、肩を脱臼する者まで現れた。タックルがないから安全っていうのを売り物にしてるっていうのに。ラグビーじゃねぇっつうの。(ちなみに外れた関節をはめるのも主務の仕事)
この年加わった若手はラグビー経験こそなかったが、硬式野球部、サッカー部等の出身者でひじょうに運動能力が高かった。
彼らに対し、主務が技術と理論を落とし込み、関西出身の武闘派清原(仮名)が気合いを注入した。
2人のラグビー経験者が引っ張る若返ったチームは急成長を遂げているように見えた。


平塚での練習試合も数多くこなした。本チャンのラグビー部チームにはさすがに歯が立たなかったが、ラグビー未経験者が入っているようなチームとは互角に渡り合えた。
誰が先発メンバーでいくんだ、というようなちょっとしたチーム内の競争意識のようなものまで出てきた。
明らかに去年までとは違うチームになっている。
今年は勝てるんじゃないか。


昨年までのような試合当日だけの助っ人は抜きで、数か月間一緒に練習してきたメンバーだけで臨んだ第4回関東大会。
メンバーは現実がそう甘くないことを思い知らされる。


惜敗・・・。


収穫はあった。前年までのように、手も足も出ないという感じはなかった。
それなりに準備すれば、いい試合できるじゃん。サインプレー「ナタデココ」は不発だったけど。
とりあえず、やってきたことは出せたし、あとはシャワーを浴びて、平塚の駅前で「お疲れさん、また来年の夏がんばろー」とか言いながら飲んで、明日からは何事もなかったかのようにサラリーマンとしての日常に戻ってゆく。まぁ、みんなよく頑張ったよ。


と思ったのは主務だけだったらしい。


試合直後
今年から参加したメンバーは茫然としていた。
目を充血させたマリリン(仮名)は頭を抱えていた。
潤一(仮名)はいつまでも試合の行われていたコートを見つめていた。
そして、その眼には光るものが・・・。


えっ?
主務の意図しないところで、このチームは階段を一段上ったらしい。
この日、潮風が強く吹いていた。




(4)1995(part1)・決戦前夜


平成7年1月4日、仕事始めの日の昼下がり。
新都心の高層ビル街の各社がお屠蘇気分にひたっているころ、新宿中央公園に不揃いのジャージで楕円球を追うサラリーマンたちがいた。
平塚で悔し涙にくれた日から5か月。「4日だったら全員集まれるよな」という冗談がホントになってしまい、いつになく早い始動となった。
メンバーは、冬の間も会社の契約しているスポーツクラブに通い、市民マラソンにも参加し、フィットネスを維持していた。
公式戦のプレッシャーに負けないよう、マラソン大会に参加するさいは、罰ゲーム付きのきついノルマを課したりもした。
(話はそれるが、昨今、東京マラソンの影響もあってマラソンブームが定着し、平日夜の皇居の周りなんて人が多くて走れたもんじゃないらしい。ウチのチームのマラソンブームはこの年あたりがピークだった。時代がようやくアンナミラーズに追いついたってこと?)


6月には越後湯沢で合宿。
新潟に来たらやっぱ温泉と日本酒でしょ、という甘い期待は儚く消え、午前、午後の2部練習。
岩原スキ−場のゲレンデで基本スキルを反復し、徹底した走りこみ。
練習後もプールでトレーニング。
さすがに夜は多少飲んだが、翌日は主務に早朝から「俺たち、練習しに来てるんだよね?」とたたき起こされ、前夜何事もなかったかのような猛練習。


6〜7月。
週末は他チームとの練習試合のため平塚に通い詰めた。
晴れの日も雨の日も風の日も。
暗くなるまで。
あの頃は、いつも一番最後まで残って練習していた。(協会スタッフのみなさん、その節はお世話になりました。)
7月には、メンバー全員が松崎しげると東幹久を足して2で割ったような顔色になっていた。


関東大会1週間前。
対戦相手が決まる。
何回か見たことのある地元の社会人チームだった。
いかにもSOかCTBやってましたというようなやっかいそうなのが何人かいるチームだったが、倒し甲斐のあるチームだ。
昨年までは、かろうじて社会人のレクレーションの雰囲気があったこのチームは、いつのまにか男子校の運動部みたいになっていた。




(5)1995(part2)・女神に愛でられしチーム


平成7年7月29日。大会当日。
平塚に向かう東海道線の車内からすでに緊張感が漂っている。
キャプテンの的場(仮名)は窓の外を見ながら「勝ちてえよな」と独りでつぶやいている。
藤沢あたりで誰かが言った。
「あれ、マリリン、観音様に手合わせた?」
マリリン(仮名)は、平塚の往復、電車のなかから大船駅そばの丘の上にある大船観音に手を合わせることを習慣としていた。この年、練習試合で好調なのと、あれだけハードな練習で怪我人がいないのは、そのせいだと信じていた。(あそこが観音寺という曹洞宗の寺だということは絶対知らないと思うが)
「あっ、忘れた!どうしよう。えぇ、今日負けますよ!あー、どうしよう。引き返そうかな。」
「大丈夫だって。」
「いやいや、駄目ですよ!負けますよ。僕のせいで。」
あわてふためくマリリンに主務は言った。
「気にするな。このせいで、もし負けても、全員の努力が無駄になるだけだから。大したことじゃない。」
「ええーっ。そんなぁ〜。」
これでだいぶ緊張がほぐれた。
勝てたらMVPは大船観音だな。
「今日は本気で勝ちに行くから安心しろって。俺がいままでどれだけ練習試合で手抜いてたか、わかるよ、きっと。」
これはウソだった。
緊張する若手にウソをついてまでリラックスさせるのも主務の仕事。
練習試合だって全力に決まってんだろ。


第5回関東大会。
初戦の相手は、東証1部企業の茅ヶ崎工場のチーム。
試合直前の円陣で下戸の主務はいつものように
「勝って上手いビールを飲もう」と言った。
この試合、前年入部したラグビー未経験者がアタックでもディフェンスでも大活躍する。
潤一、マリリン、慎之助(すべて仮名)の3人で組むエキストラチームは、タッチイン後の1点を確実に稼ぎ、日村(仮名、たぶん体脂肪率1ケタ)は、快足を飛ばし何度もゲインラインを切った。
ラグビー経験者は、手堅く連続攻撃を仕掛け相手のオフサイドを誘い、守備では渋く相手のスペースを消した。


ハーフタイム。
いつもは、ラインの間隔がどうだ、マークがずれてるぞ、とまくしたてる主務だが、この試合に関しては言うべきことはなかった。
「大丈夫だ、絶対勝てる。」


後半。
もう14年も前の事だ。詳しい得点経過は、覚えていない。
セーフティとはいえないリードを全員で必死に守った。
最後まで集中力が切れることはなかった。
試合終了を告げるホーンが鳴る。


長い間、力を合わせて努力してきたことが結実する瞬間。
日常では有り得ない感情の迸り。


武闘派清原が雄叫びを上げた。
キャプテンの重責を果たし息をつく的場。
昨年のこの日、悔し涙を流した潤一の眼には光るものが。


こんなマイナーなスポーツの地方大会の1回戦で、大の大人がこんなにも真剣なるのが、
可笑しくて、心地よかった。


試合後の挨拶のために整列しようとした時、
1年目から苦労を共にしてきた清原と眼が合った。
そのいかつい顔が少しだけぼやけて見えた。
海風が、強く吹いていた。


たぶん、上手いビールだったんだろう。
心地よい疲れとアルコールのせいで、平塚からJRで帰路についた僕らは茅ヶ崎では爆睡していた。もちろん、ばちあたりのマリリンも。


勝利の女神は、大船の丘の上から僕らを乗せた東海道線を見守っていた。




(6)1996〜2005・低迷期



初勝利の翌年、主力選手の相次ぐ転勤により活動は一気に停滞する。
平日夜の練習はもちろん、平塚の練習会参加も儘ならず、チームの力は下降線を描く。
それでも7月の最後の土曜日だけは、新潟、静岡、大阪などから集合し、関東大会への参加は継続した。
94〜95シーズンの遺産でたまに勝つことはあったが・・・。
チームの状況と会社の業績は見事にシンクロし、会社が新規採用を控えるようになったこの10年。
メンバーは基本的にほぼ変わらず、きれいに平均年齢が10歳上がった。
メンバーは会社でのポジションも上がり、家庭を持ち、自由になる時間も少なくなっていた。
「後半、絶対逆転するぞ」とか「アイツらけちょんけちょんにしてやる」なんていうセリフより
「あっ、その日は結婚記念日だから練習出れません」とか
「試合の日、上の子の幼稚園のお遊戯会なんですよ」なんていうセリフが似合う歳になっていた。いつのまにか。
そもそも自由になる時間をビーチに向ける情熱が中性脂肪と反比例するように少なくなっていたし、情熱に輪をかけて体力が無惨なまでに衰えていた。


15年目のシーズンに向けて、主務はある思いを抱いていた。
主務はメンバーの構成上、基本的には前後半フル出場していたが、年々それがキツくなってきていた。若手からも「なんか主務さん、後半バテてたよね。口あいてたし。」とフィットネス不足を指摘された。(それがわかってるなら、外で見てないで、歳が一回り下の君が代わってくれよ、とも言いたいのだが)


また、ビーチボーイズユニコーンズ組合、ジョリーズ、ブサイクのように1年間通してほかのことを犠牲にしてまでこのスポーツに賭けているチームと「いやあ、ボール触るの1年振りだね」なんて言ってるチームが同じコートに立つのは申し訳ないという思いがあった。


「数字的にも区切りがいいし、15年目で解散かな?」という思いが日増しに強くなっていった。




(7)2006〜2009・解散!?そして低迷は続く


平成18年、夏。
第16回関東大会。
15回目の挑戦となるこの大会、メンバーへの連絡メールには、さらっと「有終の美」とか「最後の大会」とかいうフレーズが盛り込まれていた。
15回って区切りとしてもいいじゃない。
これ逃したら次は、20年だし。
幾つになってるんだよ。


ラストシーズンキャンペーンで盛り上がって感動の勝利、
という期待も虚しく、見せ場なくあっさり連敗。


平塚駅南口「北海道」。
打ち上げの席で、メンバーに充分酔いが回ったことを確認して、主務は今年で最後にする旨を淡々と語る。
ホントだったのかと驚く者。
これでやっと解放されると胸をなでおろす者。
反応は様々だった。



じっと黙って聞いていた清原(仮名)がぼそりと言う。
「いいんですか?」
強面の武闘派が口を開いたことでメンバーに緊張が走る。
「10何年もやってきて、最後があんな試合でいいんですか?悔しくないんですか?」
「・・・」
「あんな負け方して、このまま辞めちゃっていいんですか?」
「・・・」
「悔しくないンか!」
武闘派の剣幕に、その場にいた全員が凍りつく。


一人を除いて。


空気を読みきったのか、まったく読んでないのか慎之助(仮名)のカン高い声がその場を支配する。
「まあまあまあ、お二人ともそんなこわい顔しないで。
飲みましょ!飲んで忘れましょ!
また来年がんばりましょ。はい、かんぱ〜い。」


ええ〜っ、飲んで忘れましょ、って・・・。


・・・


北海道での激論からの4年間。
1勝と1引き分けがあるだけで、あいかわらず見せ場のない試合が続いている。


もう限界、と思った20年目に、うれしい誤算。


会社の若手や高校の後輩たちがチームに加わり、いつ解散するかだけを考えていたチームが活気づいてきた。
大事なところで滑舌の悪くなる20代の新しいリーダーが、これからこのチームを引っ張って行ってくれるはず。
来年以降も、このチームが続いてゆくなんて、数年前は想像もつかなかった。


たぶん、来年はもっと強くなるだろうな。
そのとき、コートに自分がいないのは、少しだけ悔しいけど。


第5回大会で初勝利を挙げて以来、15年越しの主務の夢「3回戦進出」を、今年、彼らが叶えてくれるだろうか。
初戦に勝利すれば、2回戦の相手は昨年の優勝チームだが・・・


・・・


2011年 第21回関東大会
初戦は、8:45〜 第4コート


僕らの短い夏が始まるまで、あと3日。